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2008.01.17

震災を知らない子供たち

他人にとってはどうでもいいことかもしれない。


死んだ人の代わりにはならないことも分かっている。

私は幸いな事に近しい人は亡くならなかったし
後始末に追われる大人と違って気楽なものでした。
でも自分もあの時間居合わせた者として
色々思うことがあるので。

阪神大震災から13年、最近の子供はもうこれを知らないんだな…
電気やガスが戻って、建物が新しくなって
目に見えていた痕跡が消えていった頃から

危機意識も感謝の気持ちも、
忘れている事が多くなりました。

これではいけない。と
だいぶ前から書き留めていたものですが
散文すぎです。汗
いつかきれいにまとめます。


私は当時小学生で
連休明けの早朝だった。何があったのか分からなかった。

寝ぼけている間に家具も何もかもひっくり返って

電気もガスも水道も止まってしまった。

明るくなったと同時に水と飲料の買出しに行った母は偉大だ。
(そしてあんな状態で店開けた人たちと新聞を毎日届け続けた人たちも。)


外に出れば町全体が、家が潰れて歩けばすぐにけつまづくくらい道路が隆起したり
ヒビが入っていた。段々事の重大さが分かってきた。

アニメか、映画か、ニュースで見た外国の映像のようなものが
現実のものとなっていて
夜ラジオをつけていたら どんどん死者の数が増えてきて
テレビがついたらほとんど家が潰れて平らになった町で火事が起きていた。
よく遊びに行っていた、子供ながらに大都会だと思っていた場所が。高速道路が崩れていた。

下手をしたら死んでいた。

ほんとうに、生きているだけで幸運だ。

実際、当時父が寝ていた部屋には大きなタンスがあって、
数日前に姉が勉強部屋にある棚?が邪魔だとキレて
だったらここにおいて置け~と色々と移動させていたおかげで
倒れてきたタンスの下敷きにならずに済んだのだった。

今はそんなことも忘れていて

面白いことあまりないけど
何も起こらないないよりかましだ。
時々ささいだけど楽しいことに出会ったら嬉しくなるし。


実はこの時は家族親戚クラスメイトはみんな無事だったので
時間が経つにつれ「震災」を忘れていることが多かった。

震災の何年かあと家族が亡くなったり、
可愛がってたカメが盗まれたり
友達と色々あったりして、
ようやくこの重みが分かってきた気がする。
人間、実際に体験しないと理解できないのかもしれない。
だから震災を知らない人に伝えようと思っても
分かってもらえない事のほうが多い気がする

でもあの瞬間に沢山の人が亡くなったのは事実だ。

今までそこにいた人が、突然抜け落ちたようにいなくなって

それでも時間は過ぎていって

空いてしまったその人の場所を抱えて生きていくのはとても…

当事者には一生忘れられない。

だからもっと今の命を大切にせねば、1人で生きてるわけじゃないんだ、と
当たり前だけど忘れてしまう事を思い出して
だらけた自分に反省。


************

私のいた学区はクラスメイトも無事で
(別の校区ではそうでもなかったけれど)
自分の家はドアが閉まらなくなったけど何とか立っていたので
被災中心地の人よりはましだった。

1階は柱むき出し(しかもアリにやられていた…危険)
でほとんど2階で暮らしてました。
(余震があった期間は←けっこうあって怖かった
鉄骨マンションに住んでいる親戚の家へ泊まった)

子供だったこともあり、危機感もなく
遊び(キャンプ)気分でなんだか申し訳なく思う。
家の片づけが済んだら
水くみの手伝いくらいしかせず
(灯油用のタンクに入れてよく運んだ
洗い物はもちろんトイレを流す時にも必要でした)
ガスが出ないので料理はもちろん、お風呂にも入れず辛かった。
洗面器にポットのお湯をはって足を付けたり体を拭いた。

復旧工事が始まるまで3つくらい隣の市まで車で行って
おばあちゃんの妹さんとその家族が住む所で、今まで知らない人だったのに
お風呂貸してもらって洗濯しました。
あれ以来会っていませんが
ありがとうございました。


道路が壊れていたのでボコボコの車道はいつも渋滞。
反対車線を消防車が走る。その後ろにちゃっかり付いて行く輩が。恥を知れ(怒)

六甲山を通る山道も車であふれる中
入り口の芝生あたりに同じような大きさの柴犬と白犬が3、4匹ほどいた。
どこかの飼い犬だったんだろうな。肩を寄せ合っていてかわいそうだった。
さら地になって塀しか残っていない家にネコがずっといた。
ネコは家につくのか、そういうのもあちこちで見かけた。
その頃は犬猫が飼えなかったので余計に。

学校が始まってもみんな
家が壊れて親戚などの家に避難(非難ではない)していて
生徒が十数人に減った教室で授業を受けたり
体育館に人が暮らしていたり
校庭が仮設住宅と車置き場に変わってしまった隅で縄跳びしたり

家の近所で門を通して九官鳥がいつも見える所があったが
門の向こうには屋根しかなかった。
全部潰れていた。その家の人はどうなったのか知らない。
けど今は別の人の家が建っています。
都会の方へ行く機会があったけれど
ビルの3階の上が5階になっているようなのはよく見かけた。
1フロア全部へしゃげてしまっていたのだ。
もうそんな物ばかりで何気なく通り過ぎていたけれど
今思えばそこで暮らしていた人々がいたわけで、
想像すると恐ろしい。悲しい。

がれきの山、その隙間から布団が見える、45度くらいに傾いた家、
連絡先をかいた書置き、たずね人の張り紙、
電話は混線してつながらない。

震災当時はニュースを見てると
まだそこに生きた人が埋まっている、とか
家が燃えているのに何も出来ない人がテレビで写っていて恐ろしかった。
子供の頃は、取材の人はいいよね、帰る家があるから。
みんな家なくなったり家族死んだり、それどころじゃないのに撮影すんなよとか思っていたけれど
遠くに住んでいる人に知らせるためだから。知らせてください。

普段見ない、聞いたことない地域のナンバーつけたトラックを沢山見た。
全国から復旧やボランティアの人が来てたんでしょうね。

当たり前のように受け取っていたけれど

ほんとうにありがとうございました。
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